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YOASOBI「劇上」歌詞の意味をわかりやすく考察|Ayaseのコメントから考察します!

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YOASOBI「劇上」歌詞の意味をわかりやすく考察|Ayaseのコメントから考察します! Jポップ

YOASOBIが2025年10月2日にリリースした新曲「劇上」は、フジテレビ系ドラマ
『もしもこの世が舞台なら、楽屋はどこにあるのだろう』の主題歌です。
この記事ではAyaseのコメントやドラマとの関連も含め、歌詞の意味をわかりやすく考察してきます。

ドラマの舞台は1984年の渋谷
“まだ何者でもない若者たち”が夢や恋、挫折を抱えながらも生きる姿を、三谷幸喜が描いた群像劇です。
そのドラマに寄り添うように、「劇上」は“この世”をひとつの舞台として描き、
私たち一人ひとりの生き方を問う楽曲になっています。

ここからは、歌詞の意味をわかりやすく考察します。

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YOASOBI「劇上」の歌詞

踊れ dance!
暗闇の中で
踊れ dance!
野晒しの舞台で

「やってらんないな」
「冗談じゃないわ」
叫び出してしまいそうな想いが
誰もがそうだ
僕もそうだ
彷徨い歩けど 行き止まり

この街は理想郷か
はたまた夢の墓場となるか
色めき立つ喧騒の
隙間に点るネオン灯
人知れず動き出す舞台があった

まばらに人と人
閑散としたダンスホール
静かにただ
主役を待つスポットライト
流れるミュージック
誰もが着込んだ不安ごと
脱ぎ去る夜
幕が上がる

踊る dance!
暗闇の中で
きらりゆらりと
星も見えない夜に舞う
そこに写し見えた影法師
明日を探す僕らのシンボリズム
踊る dance!
肌身をあらわに
強かに舞う姿が美しい
やがてこの幕が降りた時
僕らは何者へと帰るのか

もしも世界が
舞台ならば
これも与えられた役回り?

たとえば 拍手喝采
完成された喜劇に身を賭して
指差され笑われる日々は
悲劇なのか
「このままでいいのか いけないのか」
それも全ては自分次第みたいだ

救いのない日々も憂いも
物語の一幕だとしたら
たとえ今が哀れでも無様でも
主役を演じ切る命であれ

踊れ dance!
今この劇上で
この身ひとつ
明日も見えない夜に舞え
今は誰も見向きもしない
そんな役回りでも知ったことか
踊れ dance!
野晒しの舞台で
がむしゃらに生きる僕らは美しい
いつかこの幕が降りるまで
この命を演じ続けるのさ
この命を見せつけてやるのさ

今この劇上で
踊れdance!
この幕が降りるまで

劇上 / YOASOBI

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Ayaseのコメントが示すテーマ:「この世は舞台、僕らは皆役者である」

Ayaseは楽曲について、Instagram のコメントでこう語っています。

この世は舞台であって、人は皆何かしらの役を演じている。
自分とは何者なのか、一体何者なのか。
誰かに与えられた、もしくは自分で与えた役割りを、僕らは“個”として生きている。
…であれば僕は、胸を張って自分が主役だと、これが俺の人生なんだと、
命を燃やして生きていたいと、その様をまざまざと見せつけてやるんだ、と本気でそう思いました。

Instagram

このコメントからわかるのは、
「劇上」は“人生という舞台の上で、自分の役をどう演じるか”という物語だということ。
「生きる」とは、他人や社会が決めた“役割”を演じることかもしれない。

でも、その役を“自分の意思で選び、自分の人生を主役として生きる”ことができる――
そんな強いメッセージが込められています。


冒頭:「暗闇」「野晒しの舞台」に込められた現実の厳しさ

踊れ dance! 暗闇の中で
踊れ dance! 野晒しの舞台で

劇上 / YOASOBI

最初に描かれるのは、スポットライトの当たらない“暗闇の舞台”。
「野晒し(のざらし)」とは、守られることのない、むき出しの場所。
つまりここでの舞台は、主人公にとって満足できていない現状の社会を象徴しています。

私たちは、誰かに見てもらえなくても、生きなければならない。
それでも“踊れ”と歌うのは、どんな状況でも「自分の舞」を続けろという呼びかけのようにも聞こえます。

それは私自身にも、そしてドラマに登場する若者たち――まだ名もなき役者たちの姿にも重なります。


「街は理想郷か夢の墓場か」──渋谷という舞台と“現実”の対比

この街は理想郷か
はたまた夢の墓場となるか

劇上 / YOASOBI

このフレーズは、ドラマ『もしもこの世が舞台なら、楽屋はどこにあるのだろう』の舞台・1984年渋谷の空気と深くリンクしています。
華やかで刺激的な街。けれどその裏には、夢が叶わず散っていく現実も多くあります。

“理想郷”と“夢の墓場”という対比は、
生きることの二面性を鮮やかに描いています。
夢を追うことは輝きでもあり、同時に苦しみでもある。

それでも「それを舞台として生きる」と決めることこそが、この曲の中心テーマであると感じます。
Ayaseも「何を演じたいのか、何でありたいのか、すべて自分次第」と述べているようにです。


「主役を待つスポットライト」──まだ何者でもない僕らへ

人知れず動き出す舞台があった
・・・
主役を待つスポットライト

劇上 / YOASOBI

ここで描かれているのは、誰もがまだ“主役”になっていない世界
ドラマもまさに“群像劇”であり、25人の若者それぞれにスポットが当たります。
YOASOBIはその構造を歌詞に落とし込み、“誰もが主役になれる可能性を持つ”という希望を表現しています。

「主役を待つ」という言葉には、まだチャンスを掴んでいない人たちへのエールが込められています。
今もあなたを待つステージがある。
そこにはすでにスポットライトが照らされていて、あなたの登場を待つだけ。

主役になるはずの”あなた”の行動を促す強いエールだと感じました。

そしてそれは、観客ではなく“舞台に立つ者”として生きようというメッセージにも感じられます。

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「肌身をあらわに」──弱さもさらけ出す美しさ

誰もが着込んだ不安ごと
脱ぎ去る夜
・・・
肌身をあらわに
強かに舞う姿が美しい

劇上 / YOASOBI

この部分は、Ayaseが語る“命を燃やして生きたい”という想いの象徴のような歌詞だと感じました。
完璧であることよりも、傷や弱さを抱えながらも生きる姿が美しい。
このフレーズには、“生きる=演じる”ことのリアルが滲んでいます。

不安を取り去って裸のまま踊る様はまさに必死です。
そのように命を燃やして生きることに価値を感じたAyaseの思いが伝わってくるような歌詞です。

1984年の若者たちが見た夢、
そして現代を生きる私たちが抱える不安。
どちらも同じように、「不安を抱えながらも必死に踊る」テーマは変わりませんよね。


クライマックス:「主役を演じ切る命であれ」

主役を演じ切る命であれ
この命を演じ続けるのさ
この命を見せつけてやるのさ

劇上 / YOASOBI

このフレーズは、「劇上」のテーマをストレートに表現した歌詞であると感じます。

Ayaseのコメントにある「胸を張って自分が主役だと言いたい」という想いが、
まっすぐな言葉で歌詞化されています。

ここでの“主役”とは、他人に選ばれた存在ではなく、自分自身が決める主役
たとえ誰かに評価されなくても、自分の人生は自分が演じる。

それを“見せつけてやる”という強気の表現が、YOASOBIらしい決意として響きます。


Ayaseが自らボーカルを務める意味

今回の「劇上」では、YOASOBIのコンポーザー・Ayaseもボーカルを担当しています。
彼自身が“作り手”であり“演じ手”になることで、
曲のメッセージ「演じること=生きること」を実践的に体現しているように感じました。

「作る側」と「歌う側」の境界を超えて、
Ayase自身が“舞台の上に立った”瞬間。
それこそが、「劇上」というタイトルの意味でもあるように思います。

感じ方としてですが、Ayaseとikura、二人が舞台に立って歌うことで二人にとっての劇場や主人公は何だろう?というように聞き手が考えるきっかけにもなるとも感じました。

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まとめ:誰もが「劇上」に生きている

YOASOBI「劇上」は、“人生は舞台であり、私たちは皆、何かを演じている”という普遍的なテーマを、現代の感覚で鮮やかに表現した一曲です。

私たちは日々、誰かの期待に応えようとしたり、不安を隠したりしながら生きています。
それはまるで、与えられた台本をなぞるようなものかもしれません。

けれどこの曲は、そんな舞台の中で「自分で選んだ役を、自分の意志で演じ切れ」と背中を押してくれます。

たとえ光が当たっていなくても、観客がいなくても、「今この劇上で踊れ」と鼓舞してくれるYOASOBIの音楽は、僕ら一人ひとりに向けたエールのようにも響きます。

そしてAyaseが自身の声で歌ったこともまた、“作り手”であり“演じ手”でもある自分自身の在り方を示すような、リアルな決意の表明だったのではないでしょうか。

この世の舞台の上で、どんな役をどう演じるかは、誰かが決めるものではなく、あなた自身が選び、演じ切るもの。

「主役を演じ切る命であれ」

この熱いメッセージが響く楽曲でした。

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